オラウータンの幸福論

知り合いの日本画家がオラウータンの絵を描いていた時の話です。

 

毎日毎日、動物園のオラウータン小屋の前に画架を立て、年老いたオラウータンをスケッチしていました。

動物をスケッチするのはとても難しいと思います。

物と違って動きますし、近距離で観察することも困難です。

 

数日通っていると、毎日やってくる画家に慣れてきたのでしょうか?

そのオラウータンが柵の近くまで近寄ってくるようになったそうです。

 

そんなある日、オラウータンの奇妙な行動に画家は気付きます。

画家の方に視線を向け、右手をくるくる回すような素振りをするのです。

 

はて?この行動はどんな意味があるのだろうか?

 

最初、この行動の意味が全くわからなかった画家は、注意深くオラウータンを観察することにしました。

よくよくオラウータンの目線に注意してみると、画家本人ではなく画架を見ていることに気づきました。

 

『もしかして、私の書いているスケッチを見たいのかも』

 

そう感じた画家は、スケッチをオラウータンに見せてみることにしました。

彼女の描いていたスケッチは、年老いたオラウータンの横顔でした。

 

その年老いたオラウータンの瞳は、見る物すべてを深く呑み込んでしまいそうな漆黒の光を

画家の描いた自身のスケッチへ、じーっと向けていたそうです。

 

すると、その年老いたオラウータンは、画家の右側に顔を背け、動きを止めました。

 

スケッチがし易いよう、画家の描いていたスケッチと同じポーズをとってくれたのです。

 

 

オラウータンは『森の賢人』と呼ばれることがあります。

これは、オラウータンという言葉がマレー語で『森の人』という意味らしく

その語源から来た呼び名だそうです。

 

しかし、霊長類学者の間で、オラウータンの頭脳のシステムは長い間謎のままでした。

 

人間の頭脳が高い知能を有していることは言わずもがなですが

チンパンジーなどは道具を使うことが出来ますし、ゴリラのココちゃんは手話で人間と会話が出来ました。

 

しかし、オラウータンは道具も使いませんし、手話など人間同様の高い知性を用いることは確認されていません。

 

『オラウータンはいったい、その大きな頭脳を何に使用しているのか?』

 

その問いは近年、学者たちの研究で明らかになってきました。

 

檻に5匹のオラウータンがいます。

そこに、パンを一斤放り込みます。

すると、一匹のオラウータンが近づき、パンをひとかけ持っていきます。

そして、もう一匹が近づきひとかけ、さらにもう一匹が近づきひとかけ。

 

5匹全員に均等にパンが渡るのだそうです。

 

この行動は、とてつもなく高い知性が必要となります。

オラウータンはその高い知性を、仲間との幸せな共存の為に使っていたのです。

 

オラウータンは外敵から身を守る時以外に、攻撃的な行動をほとんどとらないと言います。

 

この知性のコントロールは、人間には不可能と言われています。

 

音楽をやっていると、幸福とは何か?と考えることがあります。

音楽は幸福を感じるものだし、不幸から生まれた音楽も幸福への道標としてでてきます。

 

しかし、人間という生き物は、幸福を全ての人々と分け合うようにはできていません。

音楽観の違いからくる論争や、技術の張合い、駆け引き。

様々な出来事が、音楽の周りには当たり前のようにつき纏っています。

 

僕自身、音楽を通してあらゆる人々と幸福を共有することは不可能だと、思い悩むことが多々有ります。

なぜなら、幸福を共有しない音楽は、僕自身を傷つけるからです。

 

他人の音楽を批判してしまった時、技術で優位に立った場合に相手を軽視してしまった時、共演者の出方を見て自分の態度を決めてしまった時。

逆に、他人に自身の音楽性を批判された時、技術で優位に立っている人に軽視された時、考えをなかなか明かされない時。

 

そんな経験は、僕自身を深く傷つけてしまいます。

そんなことをしていては、良い音楽は生まれないという考えを持っているからです。

しかし、注意深く自身の内面と向き合っていないと、そういった想いというのが自然に沸き起こるのが人間です。

 

はっきり言ってしまえば、全ての人々と音楽を共有するということは不可能です。

しかし、自分が時間を共にする仲間や、ライブ会場やセッションで出会った方々など

身近な人たちとだけでも楽しい音楽を共有したいものです。

 

オラウータンの話を思い出す時、いつか幸福な音楽を奏でることのできるギタリストになりたい。

そう思う今日この頃です。

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